よみこはた
木幡
別の表記・呼び方こわた・許波多・木旗・強田

要点
住所とJR奈良線の駅は「こはた」、京阪宇治線の駅(KH74)は「こわた」
『古事記』の歌謡では「許波多(こはた)」の字で書かれている
藤原基経が藤原氏北家の墓所と定めた地で、今は宇治陵として宮内庁が管理する
式内社の許波多神社は、木幡と隣の五ケ庄の2か所にある
読み方:住所とJRは「こはた」、京阪は「こわた」
木幡は宇治市の地名で、住所としての読みは「こはた」です。JR奈良線の木幡駅も「こはた」(ローマ字でKohata)と読みます。
一方、京阪宇治線の木幡駅は「こわた」(Kowata)です。同じ「木幡」という駅がJRと京阪に一つずつあり、鉄道会社によって読みが違います。地名としても、「こわた」と呼ばれることがあります。
「木幡」の読み
| 名前 | 表記 | 読み |
|---|---|---|
| 住所 | 宇治市木幡 | こはた |
| JR奈良線の駅 | 木幡 | こはた(Kohata) |
| 京阪宇治線の駅 | 木幡(KH74) | こわた(Kowata) |
| 神社 | 許波多神社 | こはたじんじゃ |
どこにある?宇治市の北部、六地蔵と黄檗の間
木幡は宇治市の北部、宇治川の右岸にあり、東の黄檗丘陵を背にした地域です。京阪宇治線の木幡駅(宇治市木幡西中23番地)は、六地蔵(KH73)と黄檗(KH75)の間にあります。JR奈良線も木幡を通り、こちらにも木幡駅があります。
丘陵の斜面には茶園が開かれ、江戸時代のころから宇治茶の主な産地の一つとして名を知られました。茶を扱う家も多い土地でしたが、今は住宅地に変わってきています。
古い書き方と、広かった「木幡」の範囲
木幡は古くから記録に出てくる地名です。『古事記』の歌謡には「許波多」の字で現れ、応神天皇がこの地で后となる女性に出会ったという話も伝わります。『万葉集』では「木旗」「強田」と書かれ、山科の木幡の山を詠んだ歌もあり、和歌に詠まれる歌枕でもありました。
古代の木幡は、山城国の宇治郡から紀伊郡にかけての広い地域を指し、京都市伏見区深草のあたりまで含んだとされます。宇治川の渡り場から逢坂山へ向かう北陸道の要所で、駅馬を置く施設があったと推定されています。平安時代の後期には宇治郡の中だけを指すようになり、江戸時代に木幡村ができて範囲が定まりました。
平安時代には、藤原師実の別荘「京極殿」や藤原基房の別荘「松殿」も木幡に営まれました。江戸時代の木幡は、幕府の直轄地や旗本の領地、公家の阿野家・橋本家の領地が入り混じる土地でした。
許波多神社と藤原氏の墓所
許波多神社(こはたじんじゃ)は、宇治市の木幡東中と、隣の五ケ庄古川の2か所にあります。どちらも明治より前は「柳大明神」と呼ばれ、二社とも『延喜式』神名帳の宇治郡に名神大社として載る許波多神社に認定されています。木幡東中の社は旧奈良街道の東側にあり、『山城国風土記』の逸文には木幡の社として出てきます。
二つの神社は、もとは五ケ庄東部の柳山にあった同じ神社で、いつのころか分かれたとされます。壬申の乱の前、大海人皇子(のちの天武天皇)が参拝して鞭にしていた柳の枝を挿したところ芽吹いたので、その地を柳山、神社を柳大明神と呼ぶようになったと伝わります。
木幡の山ぞいには、5〜6世紀の古墳が点在しています。平安時代には関白藤原基経がこの地を藤原氏北家の墓所と定め、その後も摂政・関白や、入内した藤原氏の娘たちが葬られました。寛弘2年(1005年)には藤原道長が菩提寺として浄妙寺(木幡三昧堂)を建てています。こうした墓所は近代に陵墓地となり、今は宇治陵の名で宮内庁が管理しています。
この項目のミニクイズ
宇治市の地名「木幡」。京阪宇治線の駅名としての読みは?
平安時代、宇治市の木幡を藤原氏北家の墓所と定めた関白は?
宇治市で「許波多神社」の名をもつ神社があるのは、木幡ともう1か所はどこ?
出典・確認情報
内容確認日:2026年11月8日
更新日:2026年11月8日
