広隆寺の弥勒菩薩

要点
「国宝第1号」は、最初の国宝指定の日に指定された多くの文化財の代表としての通称
国宝の弥勒菩薩半跏像は2体。冠をつけた宝冠弥勒と、泣き弥勒と呼ばれる宝髻弥勒
宝冠弥勒が朝鮮半島と日本のどちらで作られたかは、いまも結論が出ていない
弥勒二体は霊宝殿で常時公開、国宝のお堂は境内奥の別の建物
最初の国宝指定の日に国宝になった像
広隆寺の木造弥勒菩薩半跏像は、明治30年(1897年)12月28日に重要文化財(当時の制度による指定)となり、昭和26年(1951年)6月9日に国宝に指定されました。昭和25年(1950年)にできた文化財保護法のもとで初めて国宝の指定が行われた日です。「国宝第1号」「国宝彫刻第1号」の呼び名はここから来ていますが、通し番号の1番ではなく通称です。
同じ日には、醍醐寺の五重塔、銀閣寺の銀閣と東求堂、本願寺の飛雲閣など、京都市内の建物だけでも5件が国宝になっています。美術工芸品もまとめて指定されており、弥勒菩薩はその代表として「第1号」と呼ばれるようになったものです。
宝冠弥勒と泣き弥勒
広隆寺には国宝の木造弥勒菩薩半跏像が二体あります。半跏像とは、片足をもう片方の膝にのせて腰かけ、指を頬に近づけて考えごとをする姿の像で、「半跏思惟像(はんかしいぞう)」とも呼ばれます。一体は頭に冠をつけた「宝冠弥勒(ほうかんみろく)」で、国宝第1号と呼ばれるのはこちらです。
もう一体は髪を高く結い上げた「宝髻弥勒(ほうけいみろく)」で、泣いているような表情から「泣き弥勒」の通称があります。こちらも飛鳥時代の像で、国宝になったのは宝冠弥勒の翌年です。
像の由来と尊名をめぐる諸説
『日本書紀』には、推古天皇11年(603年)に聖徳太子から仏像を授かった秦河勝が「蜂岡寺(はちおかでら)」を建てたとあり、同じく623年(推古天皇31年)の記事には、新羅(しらぎ)から送られた仏像を葛野(かどの)の秦寺に安置したともあります。このどちらかがいまの宝冠弥勒にあたるとみられ、朝鮮半島から渡ってきた新羅の仏像である可能性が高いとする研究者もいます。
603年の仏像と623年の仏像のどちらにあたるのか、また朝鮮半島で作られたのか日本で作られたのかは、いまも結論が出ていません。像の名前についても、近年は弥勒ではないとする見方も出ましたが、当初から弥勒菩薩として作られたとする研究成果も示されており、尊名の研究はいまも続いています。
広隆寺を建てた秦氏と太秦
秦氏は古代に朝鮮半島から渡ってきた氏族で、5世紀中ごろに新羅から渡来した集団とみられています。太秦あたりを本拠にし、桂川に葛野大堰(かどのおおい)を築いて嵯峨野一帯を開き、養蚕や機織の技術を伝えました。「うずまさ」の地名には、秦氏が絹をうずたかく積んで献上し、禹豆麻佐(うずまさ)の姓を賜ったという伝承があります。秦氏の祖先を祀る大酒(おおさけ)神社はもと広隆寺の境内にあり、明治の神仏分離で現在地に移されました。
秦河勝が建てた蜂岡寺がいまの広隆寺です。「広隆寺」の名が文献に現れるのは承和5年(838年)ですが、飛鳥時代の仏像や出土した瓦から、寺の始まりは飛鳥時代とされています。寺の北側一帯の広隆寺旧境内や常盤仲ノ町(ときわなかのちょう)遺跡では、飛鳥時代の竪穴住居の跡が多く見つかっています。
広隆寺の国宝と桂宮院本堂
広隆寺の国宝は、彫刻6件、古文書2件、建造物1件の計9件です。彫刻は二体の弥勒のほかはすべて平安時代の像で、講堂に安置されている像も含まれます。講堂そのものは平安時代後期の建物で重要文化財です。
建造物でただ一つの国宝が桂宮院(けいきゅういん)本堂です。鎌倉時代前期、建長3年(1251年)以前に建てられたとみられる八角形の檜皮葺(ひわだぶき)のお堂で、鎌倉時代の円堂建築を伝える貴重な例です。
広隆寺の国宝一覧
| 名称 | 種別 | 国宝指定日 |
|---|---|---|
| 木造弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒) | 彫刻(飛鳥時代) | 昭和26年(1951年)6月9日 |
| 木造弥勒菩薩半跏像(宝髻弥勒・泣き弥勒) | 彫刻(飛鳥時代) | 昭和27年(1952年)11月2日 |
| 木造阿弥陀如来坐像(講堂安置) | 彫刻(平安時代) | 昭和27年(1952年)3月29日 |
| 木造不空羂索観音立像(所在講堂) | 彫刻(平安時代) | 昭和27年(1952年)11月22日 |
| 木造千手観音立像(所在講堂) | 彫刻(平安時代) | 昭和28年(1953年)3月31日 |
| 木造十二神将立像(伝長勢作)12体 | 彫刻(平安時代・1064年) | 昭和28年(1953年)3月31日 |
| 広隆寺縁起資財帳 | 古文書(平安時代) | 昭和28年(1953年)3月31日 |
| 広隆寺資財交替実録帳 | 古文書(平安時代) | 昭和28年(1953年)3月31日 |
| 広隆寺桂宮院本堂 | 建造物(鎌倉時代前期) | 昭和28年(1953年)3月31日 |
霊宝殿の拝観と太秦の牛祭
広隆寺は右京区太秦蜂岡町32。嵐電(京福電鉄嵐山本線)の太秦広隆寺駅から徒歩約1分、JR嵯峨野線の太秦駅から徒歩約13分です。国宝の仏像は本堂の奥の霊宝殿(1982年建設)で常時公開されています。霊宝殿の拝観は有料で、午前9時から午後5時(12月から2月末は午後4時30分まで)、無休、1月1日は午前10時からです。
霊宝殿には二体の弥勒のほか、飛鳥から鎌倉までの各時代を代表する仏像が並びます。国宝の桂宮院本堂は境内の奥にあり、霊宝殿とは別の建物です。公開の有無は寺に確かめてください。
10月の「太秦の牛祭」は、紙の面をつけ牛に乗った摩多羅神(またらじん)が境内を巡り、薬師堂の前で長い祭文を読み上げる夜の行事で、京都三大奇祭の一つ、京都市の登録無形民俗文化財です。近年は10月10日の夜に行われてきましたが、いまは休止しています(2026年10月時点)。
この項目のミニクイズ
広隆寺の「泣き弥勒」と呼ばれる国宝の宝髻弥勒は、何時代の像?
広隆寺の建造物でただ一つ国宝に指定されている、鎌倉時代の八角形のお堂の名前は?
出典・確認情報
内容確認日:2026年10月17日
更新日:2026年10月17日
- 文化庁「国指定文化財等データベース 木造弥勒菩薩半跏像(広隆寺・昭和26年国宝指定)」
- 文化庁「国指定文化財等データベース 木造弥勒菩薩半跏像(広隆寺・昭和27年国宝指定)」
- 文化庁「国指定文化財等データベース 木造阿弥陀如来坐像(講堂安置)」
- 文化庁「国指定文化財等データベース 木造不空羂索観音立像(所在講堂)」
- 文化庁「国指定文化財等データベース 木造千手観音立像(所在講堂)」
- 文化庁「国指定文化財等データベース 木造十二神将立像(伝長勢作)」
- 文化庁「国指定文化財等データベース 広隆寺縁起資財帳」
- 文化庁「国指定文化財等データベース 広隆寺資財交替実録帳」
- 文化庁「国指定文化財等データベース 広隆寺桂宮院本堂」
- 文化庁「国指定文化財等データベース 広隆寺講堂」
- 文化庁「国指定文化財等データベース 醍醐寺五重塔」
- 京都市「都市史01 秦氏」
- 京都市観光協会 京都観光Navi「広隆寺」
- 京都市観光協会 京都観光Navi「広隆寺霊宝殿」
- 京都市・京都観光推進協議会 きょうと修学旅行ナビ「広隆寺」
- 京都市埋蔵文化財研究所(第228回京都市考古資料館文化財講座、太秦・嵯峨野地域の遺跡6)
- 京都市文化観光資源保護財団「京都の歴史と文化 映像ライブラリー 太秦牛祭」
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「太秦牛祭(うしまつり)に関する写真が見たい。」
- 文部科学省 科学研究費助成事業データベース「日本・朝鮮古代菩薩半跏像の図像と尊名に関する研究」
