歴史・人物

鳥羽・伏見の戦いの痕跡

幕末の伏見の町角の挿絵。格子窓のある木造二階建ての料亭の前に小さな丸い傷の残る格子、運河にかかる小さな橋と石碑、遠くの神社の森と鳥居、空に薄くたなびく煙、川沿いの低い丘に小さな大砲の影。

要点

  1. 兵の数では旧幕府軍が上回ったが、新政府軍の装備に押され、淀藩の閉門と津藩の寝返りもあって6日に敗走

  2. 鳥羽は小枝橋の付近、伏見は御香宮神社(薩摩藩)と伏見奉行所(会津藩・新選組など)のあいだで衝突

  3. 伏見の跡は、京阪中書島駅から寺田屋・魚三楼・奉行所跡・御香宮へと歩いてたどれる

  4. 旧幕府軍の戦死者をまつる1907年の碑15基が、伏見・鳥羽・淀に残る

慶応4年(1868年)正月3日に始まった戦い

大政奉還のあと大坂城にいた徳川慶喜は、薩摩を討つため上洛を決め、慶応4年(1868年)正月3日、旧幕府軍の本隊が鳥羽街道と伏見街道に分かれて京都へ向かいました。迎え撃ったのは薩摩・長州を中心とする新政府軍です。数では旧幕府軍の約1万5千人が新政府軍の約4千〜6千人を上回りましたが、装備にまさる新政府軍が押し返しました。

翌4日には新政府軍が朝廷から錦の御旗(錦旗)を受けて官軍となり、5日には淀で激しい戦いが続きます。淀藩が城門を閉ざし、津藩が寝返ったこともあって、6日に旧幕府軍は敗走し、慶喜は海路で江戸へ戻りました。ここから翌年の箱館五稜郭の戦いまで続く内戦を戊辰戦争といいます。

鳥羽の小枝橋と城南宮

鳥羽街道(今の千本通)を北へ進んだ旧幕府軍は、竹田・城南宮の周辺に陣を敷いた新政府軍と、鴨川にかかる小枝橋で向き合いました。通せ、通さないの押し問答の末、薩摩藩の大砲が火を吹いて戦いが始まりました。大砲が置かれた場所には、城南宮の参道と、鳥羽離宮跡公園の小高い丘「秋の山」の2つの説があります。城南宮の由緒によると、勝った薩摩の軍勢は城南宮へ御礼参りに訪れました。

鳥羽・伏見の戦いの跡

鳥羽・伏見周辺の略図。左上から鴨川が南へ流れ、小枝橋で鳥羽街道(千本通)と交わり、その南で桂川に合流する。小枝橋のすぐ東に鳥羽離宮跡公園(秋の山)と城南宮。右側を竹田街道が南北に通り、伏見の京橋に至る。宇治川は右から左下へ流れ、桂川とともに左下の淀へ向かう。淀の近くに妙教寺と千両松。右下の拡大図には、京橋のすぐ東の寺田屋、その北東の伏見御堂(会津藩駐屯地跡)、大手筋沿いの京阪伏見桃山駅、そのすぐ南の魚三楼、南東の伏見奉行所跡、北東の御香宮神社、南の中書島駅。
伏見の町は右下に拡大しています。
せたがわ・うじがわ・よどがわ瀬田川・宇治川・淀川へ続く水の道

伏見の御香宮と奉行所

伏見では前日の夕方、会津藩の先鋒約200人が船で京橋に上陸し、伏見御堂(今の東本願寺伏見別院)を宿陣にしていました。会津藩を主に新選組などを加えた旧幕府軍約1500人が伏見奉行所などに入り、薩摩藩の兵約800人が御香宮神社を中心に陣を張って向き合います。3日夕方、鳥羽方面の砲声をきっかけに、御香宮の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が奉行所を撃ち、伏見でも戦いが始まりました。

奉行所は焼け落ち、旧幕府軍は淀方面へ退きました。退くときに民家に火が放たれ、京橋のあたりの多くの家が焼けました。御香宮の社殿は戦火を免れました。京町通の料亭・魚三楼には、奉行所から打って出た旧幕府軍と大手筋に布陣した新政府軍がせめぎ合ったときの弾痕が、表の格子に残ります。薩摩藩の炊事方を務めていた縁で、店は戦火を免れたともいわれます。

新選組は伏見奉行所で戦った

新選組は王政復古の大号令のあと、伏見奉行所に移っていました。近藤勇は前年12月18日、二条城からの帰りに墨染のあたりで狙撃されて大坂へ退いており、鳥羽・伏見の戦いでは土方歳三が隊を率いました。新選組は奉行所で戦って敗れ、淀方面へ退きます。

すみぞめ墨染

淀・千両松の戦死者の碑

戦いの場は淀方面へ移り、4日には納所(のうそ)の妙教寺の本堂に砲弾が飛び込みました。宇治川の堤の千両松(せんりょうまつ)は激戦地となり、東軍戦死者の埋骨地の碑と慰霊碑が立ちます。慰霊碑には、会津・桑名の藩士や新選組、見廻組の隊士の霊に捧げると刻まれています。

明治40年(1907年)には、徳川家に恩のある人々の会「京都十七日会」が、旧幕府軍(東軍)の戦死者の招魂碑3基と埋骨地の碑12基を伏見・鳥羽・淀などに建てました。15基とも、今も当初の場所かその近くに残っています。

のうそ納所

寺田屋と戦火

伏見の船宿・寺田屋は、文久2年(1862年)の寺田屋騒動(薩摩藩の急進派と、鎮めに来た藩士との乱闘)と、慶応2年(1866年)正月に坂本龍馬が伏見奉行所の捕り方に襲われた事件の舞台です。寺田屋の建物はこの戦いで焼けたとみられ、当時の寺田屋は、今は公園になっている東隣の場所にありました。

中書島から歩く伏見と鳥羽・淀の碑

伏見は京阪本線の中書島駅から歩けます。寺田屋まで約5分、そこから魚三楼まで約12分、伏見奉行所跡の碑まで約3分、御香宮神社まで約6分が目安です。

鳥羽の小枝橋と鳥羽離宮跡公園は、伏見の町の西側から歩くと45分ほどかかります。城南宮は公園から約3分で、市バスの「城南宮」停も近くにあります。石碑の多くは屋外の道沿いや公園にあり、子ども連れでも外から見て回れます。

鳥羽・伏見の戦いの主な跡(2026年10月時点)

名前何が残るか場所見方
小枝橋と鳥羽離宮跡公園小枝橋東詰に京都市の石標「鳥羽伏見戦跡」(1968年)。公園の「秋の山」に「鳥羽伏見戦跡碑」(1912年)と戦いが始まった地の碑(1998年)伏見区中島秋ノ山町・中島御所ノ内町(千本通)道沿いと公園内の石碑
城南宮大砲を置いた場所の説がある参道伏見区中島鳥羽離宮町7境内を参拝
御香宮神社明治百年記念の「明治維新伏見の戦跡」碑伏見区御香宮門前町174境内の石碑
伏見奉行所跡京都市の石標(1968年)伏見区西奉行町(桃陵団地内)団地内の石標
魚三楼1764年創業の料亭。表の格子に弾痕伏見区京町3丁目(京阪伏見桃山駅から徒歩1分)営業中の料亭。格子は通りから見る(火曜ほか定休)
会津藩駐屯地跡(伏見御堂)2009年の石碑伏見区大坂町(東本願寺伏見別院前)道沿いの石碑
伏見口の戦い激戦地跡2009年の石碑伏見区南浜町(京橋北詰東側)道沿いの石碑
千両松の碑東軍戦死者の埋骨地の碑(1907年)と慰霊碑(1970年)伏見区納所下野(京都競馬場の隣)屋外の石碑
妙教寺保存されている砲弾伏見区納所北城堀(京阪淀駅の北)拝観は寺に確認

この項目のミニクイズ

  1. 1868年正月3日、鳥羽街道の小枝橋で旧幕府軍とぶつかった新政府軍は、どこの周辺に陣を敷いていた?

  2. 伏見の船宿・寺田屋について正しいのは?

出典・確認情報

内容確認日:2026年10月18日

更新日:2026年10月18日

  1. 京都市「いしぶみデータベース HU059 鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋」
  2. 京都市「いしぶみデータベース HU024 鳥羽伏見戦跡碑」
  3. 京都市「いしぶみデータベース HU025 鳥羽伏見戦跡」
  4. 京都市「いしぶみデータベース HU007 明治維新伏見の戦跡」
  5. 京都市「いしぶみデータベース HU038 伏見奉行所跡」
  6. 京都市「いしぶみデータベース HU028 維新戦跡」
  7. 京都市「いしぶみデータベース HU158 会津藩駐屯地跡」
  8. 京都市「いしぶみデータベース HU156 伏見口の戦い激戦地跡」
  9. 京都市「いしぶみデータベース HU153 近藤勇遭難の地」
  10. 京都市「いしぶみデータベース HU183 戊辰役東軍戦死者慰霊碑」
  11. 京都市「いしぶみデータベース HU032 戊辰役東軍戦死者埋骨地」
  12. 京都市「いしぶみデータベース HU131 淀古城址・戊辰戦争砲弾跡」
  13. 京都市「いしぶみデータベース HU002 戊辰役東軍戦死者碑」
  14. 京都市「いしぶみデータベース HU040 寺田屋」
  15. 京都市歴史資料館「寺田屋関係資料9種と若干のコメント(2008年10月)」
  16. 京都市伏見区役所「伏見区民史跡・名所めぐり」スポット一覧
  17. 京都市観光協会 京都観光Navi「坂本龍馬と歩く京のまち:伏見界わい」
  18. 京都市・京都市埋蔵文化財研究所「京都歴史散策マップ9 伏見 桃山」
  19. 城南宮「ご祭神と歴史」
  20. 御香宮神社「神社由緒」
  21. 魚三楼「魚三楼の伝統」
  22. 魚三楼「店舗情報」
  23. コトバンク「鳥羽伏見の戦」(「山川 日本史小辞典 改訂新版」「改訂新版 世界大百科事典」ほか)
  24. コトバンク「鳥羽伏見の戦い」(「日本大百科全書(ニッポニカ)」ほか)
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