よみかたぎはら
樫原
別の表記・呼び方樫原宿

要点
町名も小学校・中学校の名前も「かたぎはら」
旧山陰街道が東西に、物集女街道が南北に通り、交わるあたりが中心
樫原本陣(玉村家住宅)は平成4年(1992年)に京都市指定有形文化財
阪急桂駅から市バスで約6分、歩くと約15分
「かたぎはら」と読む47の町名
樫原は「かたぎはら」と読みます。「樫」はふつう「かし」と読むので、「かしはら」と読みたくなる字です。西京区には樫原池ノ上町(かたぎはらいけのうえちょう)、樫原下ノ町(かたぎはらしものちょう)など「樫原」で始まる町名が47あり、すべて樫原小学校・樫原中学校の通学区域です(2025年4月時点)。
町名には「町」が付くものと付かないものが混ざり、樫原釘貫(くぎぬき)、樫原百々ケ池(どどがいけ)、樫原硲町(はがまちょう)、樫原蛸田町(たこでんちょう)のように、後ろの部分も読みにくいものがあります。
桂駅の西、二つの街道が交わる場所
樫原は桂川の右岸、阪急桂駅の西にあります。京と丹波・山陰地方を結ぶ旧山陰街道が東西に、物集女街道が南北に通り、二つが交わるあたりが樫原の中心です。物集女街道は山陰街道と西国街道を結ぶ道で、樫原で山陰街道に出ます。旧山陰街道は七条通から桂、樫原を経て老ノ坂へ続く道で、今の国道9号とほぼ同じ道筋です。
阪急桂駅からは市バス33系統などで約6分、歩くと約15分、JR桂川駅からは市バス69系統などで約11分です(2023年11月時点)。バス停は「樫原」「公会堂前」「三ノ宮」が近く、樫原本陣は「公会堂前」で降りてすぐです。阪急の洛西口駅は樫原の南東にあたります。
樫原の二つの街道と駅の位置
名前の由来
国語辞典では「樫原(かしはら)」は樫の木が一面に生い茂った原を指すことばで、「堅木(かたぎ)」はカシ類やクヌギ・ナラ・ケヤキなど、堅い材になる木を指すことばです。ただ、地名の「かたぎはら」がこれらの語から来たことを示す記録は確かめられず、由来ははっきりしません。樫原三ノ宮神社は、古くは柏原神社とも呼ばれたと伝わります。
7世紀中ごろの寺の跡は、寺の名が分からないため地名をとって「樫原廃寺」と名付けられ、昭和46年(1971年)に国の史跡になりました。
京を出て最初の宿場と樫原本陣
江戸時代の樫原は、山陰街道で京を出て最初の宿場町としてにぎわい、丹波・丹後から運ばれる物資の集まる場所でもありました。大名行列で道を渡れず、向かいの家に届けるぼた餅が傷んだという話も残ります。
宿場の中心の樫原本陣(樫原下ノ町)は玉村家の住宅で、参勤交代の大名など限られた人だけが泊まる宿でした。伏見宿の本陣は残っていないため、京都市内に残る本陣の遺構はここだけで、平成4年(1992年)に京都市の有形文化財に指定されました。近くの無量院は、大名行列のときに脇本陣の役目を務めた寺です。
旧街道に沿って、低い二階の壁に虫籠窓(むしこまど)を開けた町家が、いまも数多く軒を連ねています。一帯は京都市の「西京樫原界わい景観整備地区」で、令和2年(2020年)10月には約7.1ヘクタールが「西京樫原京町家保全継承地区」に指定されました。
明智光秀の道と幕末の石標
天正3年(1575年)、丹波平定に向かう明智光秀が樫原を補給地とし、老ノ坂から樫原、桂までの道を整えたとされます。溜池や用水路も開いたと伝わり、小畠川(こばたけがわ)は「明智川」とも呼ばれます。
元治元年(1864年)7月19日の禁門の変で敗れて逃げる途中の長州藩士と、薩摩藩士とされる兄弟の計3人が、樫原で幕府方の小浜藩士に斬られました。村人が手厚く葬った墓が近くの丘にあり、二つの街道が交わるあたりの樫原宇治井町には、昭和54年(1979年)に建てられた「勤王家殉難之地」の石標が立っています。
この項目のミニクイズ
江戸時代の樫原の宿場で、参勤交代の大名行列のときに脇本陣の役目を務めた寺は?
出典・確認情報
内容確認日:2026年11月8日
更新日:2026年11月8日
- 京都市教育委員会「京都市通学区町名一覧(西京区)」
- 京都市西京区役所「樫原まちあるきMAP」
- 京都市西京区役所「西京区の文化のはなし」
- 京都市「西京区・区民の誇りの木 エリアC」
- 京都市西京区役所「区民だより西京 No.193(平成24年1月15日)」
- 京都市告示「西京樫原京町家保全継承地区の指定」(令和2年10月30日)
- 京都市考古資料館 文化財講座 第306回「樫原廃寺」
- 京都市 いしぶみデータベース「NI001 勤王家殉難地」
- 京都観光Navi(京都市観光協会)「樫原まちあるきツアー」(樫原本陣の所在地とバス停)
- コトバンク「樫原(かしはら)」(精選版 日本国語大辞典)
- コトバンク「堅木」(デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典)
