地名・読み方

よみきょうのななくち

京の七口

別の表記・呼び方七口・京都七口・京の七口(しちくち)・鞍馬口・丹波口・粟田口

土塁の切れ目から旅人の荷車が都の外へ続く街道に出ていく、御土居の出入口のイラスト

ひとことで言うと

京の七口は、京都と各地を結ぶ街道の出入口をまとめて呼ぶことばです。豊臣秀吉が1591年に築いた御土居の出入口として知られるようになったといわれますが、口の数や顔ぶれは時代や資料によって違い、「七」はちょうど七つという意味ではありません。

30秒でわかる要点

  1. 京都につながる街道の出入口の総称で、「しちくち」とも読む

  2. 京都市は長坂口・鞍馬口・大原口・粟田口・伏見口・鳥羽口・丹波口を挙げる

  3. 出入口は当初10か所ほどで、江戸時代初めには40か所に増えたとされる

  4. 鞍馬口・丹波口・粟田口などが地名や駅名に残る

「口」は街道の出入口

京都府立図書館の展示案内は、「口」とは京につながる街道の出入口のことで、豊臣秀吉が御土居を築いて土塁に口が開かれ、「京の七口」として知られるようになったといわれる、と説明しています。京都市図書館がレファレンス協同データベースに登録した回答事例も、京の七口を京都と全国を結ぶ主要な街道の出入口とし、口の数は時代によって異なると答えています。同事例が参考に挙げた別の事例名にも「ななくち・しちくち」と二通りの読みが添えられています。

京都市の「歴史的風致維持向上計画」は、平安京ができて主要な道が京都に通じるようになり、その街道の京都の出入口が京の七口と呼ばれたと説明しています。そこから鞍馬街道、若狭街道、伏見街道、山陰街道、愛宕街道、鳥羽街道などが各地へ延びていました。

御土居とのつながり

京都市の文化財ページ「史跡 御土居」によると、御土居は1591年に秀吉が都市改造の一環として築いた土塁で、外敵への備えと鴨川の氾濫を防ぐ堤防の役割を担いました。その要所に七口を設けて、土塁の内側の洛中と外側の洛外の出入口にしたとしています。

京都市と京都市埋蔵文化財研究所の「京都歴史散策マップ 御土居跡」は、「京の七口」に代表される出入口は当初10か所ほどしかなかったものの、江戸時代の初めには40か所まで増えたと説明しています。同じマップによると、江戸時代に入って鴨川に新しい堤防ができると東側の土塁は取り壊されていき、近代以降は大部分が失われました。

御土居と京の七口のおおよその位置

南北に細長い御土居の輪郭を描いた模式図。北西の角に長坂口、北東側に鞍馬口、東辺の上から大原口、荒神口(破線)、粟田口、伏見口が並び、南端の張り出し付近に鳥羽口と東寺口(破線)、西辺の南寄りに丹波口がある。東の外側に鴨川、輪郭の中に御所と二条城の目印がある。
京都市「史跡 御土居」の位置図に示された7か所を実線、ほかの資料で七口に数えられる口の一部を破線で示した模式図です。位置はおおよそで、縮尺は正確ではありません。
おどい御土居らくちゅう・らくがい洛中・洛外

「七」なのに数が合わない?

「七口」の顔ぶれは資料によって違います。京都市の「史跡 御土居」は長坂口・鞍馬口・大原口・粟田口・伏見口・鳥羽口・丹波口の7か所を挙げていますが、京都市の歴史資料「聚楽第と御土居」は、鞍馬口・大原口・荒神口・粟田口・伏見口・東寺口・丹波口・長坂口などを挙げ、「10か所ほど」の出入口を一般に「七口」と総称したとしています。

京都市図書館の回答事例は、6冊の資料を比べると、鞍馬口・大原口・粟田口・伏見口・長坂口の5つはおおむね共通する一方、残りには白河口(白川口)・竹田口・鳥羽口・東寺口・西七条口・丹波口・荒神口などが資料ごとに入れ替わると整理しています。京都市の散策マップも、七口は「俗に」そう称されたと書いており、「七」は数ではなく、京の出入口をまとめて呼ぶ言い方と考えるのが自然です。

  • 京都市「史跡 御土居」が挙げる7か所:長坂口、鞍馬口、大原口、粟田口、伏見口、鳥羽口、丹波口
  • 資料によって加わる口:荒神口、東寺口、竹田口、白河口(白川口)、西七条口 など

どの口がどこへつながっていた?

京都市のいしぶみデータベースによると、北区出雲路の鞍馬口は、上賀茂・幡枝・市原・二瀬を通って鞍馬へ至る鞍馬街道の起点にあたり、室町時代には関所が置かれていました。東山区の粟田口は、平安遷都後に東海・東山・北陸の三道から京都への入口として交通の要所となり、三条口・大津口とも呼ばれました。

京都観光Naviの「京見峠」の紹介は、北の長坂口から京見峠を越えて若狭や丹波方面へ通じる道が要所で、室町時代には関所もあったと説明しています。西の丹波口については、JR西日本の沿線紹介が、丹波と京都を結ぶ旧山陰街道の出入口だった地名が駅名にもなったと紹介しています。

おもな口と、つながる道・今の手がかり

口の名前つながる道・方面今の手がかり
長坂口京見峠を越えて若狭・丹波方面へ京見峠(標高446m)へ向かう道
鞍馬口(出雲路口)鞍馬街道(上賀茂・市原を経て鞍馬へ)北区の出雲路橋西詰に石標「出雲路鞍馬口」(1970年)
大原口名前が示す大原方面上京区今出川通寺町の東北角に道標「大原口」(1868年)
荒神口資料によって七口に数えられる地名として残る
粟田口(三条口・大津口)東海・東山・北陸の三道東山区の粟田小学校前に石標(1970年)、三条通の白川橋以東の地名
伏見口名前が示す伏見方面—
鳥羽口・東寺口名前が示す南の鳥羽・東寺方面資料によってどちらを数えるかが違う
丹波口旧山陰街道(丹波方面)JR嵯峨野線の丹波口駅
「名前が示す〜方面」は口の名前から分かる方角で、街道との対応を資料で確かめられなかったものです。出典:京都市いしぶみデータベース、京都観光Navi「京見峠」、JR西日本「沿線点描」、京都市「史跡 御土居」ほか。

今どこで見られる?

京都市は1970年(昭和45年)に、粟田口と鞍馬口の場所を示す石標を建てています。粟田口の石標は東山区神宮道三条下るの粟田小学校前、鞍馬口の「出雲路鞍馬口」は北区の出雲路橋西詰にあります。今出川通寺町の東北角には、慶応4年(1868年)に須磨屋伊兵衛ほか18名が建てた「大原口」の道標が残り、下鴨や比叡山、吉田、黒谷などへの距離が刻まれています。

近くの出町橋の西詰には、出町商店街振興組合が2001年に建てた「鯖街道口」の石標があり、「従是洛中(これより洛中)」と刻まれています。京都市のいしぶみデータベースによると、鯖街道はここから高野川沿いに北上し、八瀬・大原や朽木を経て小浜へ至る若狭街道のことで、この石標はその起点を示しています。

御土居そのものは、1930年に市内に残る8か所が史跡に指定され、1965年に北野天満宮境内の1か所が加わって、今は9か所が国の史跡です。口の名残の地名と、北区などに残る土塁の跡をあわせてたどると、かつての洛中の輪郭が見えてきます。

よくある誤解

「七口は秀吉がちょうど七つ設けた出入口」と思われがちですが、ここまで見たように数も名前も資料によって違います。また、鞍馬口や、長坂口から続く京見峠の道には室町時代に関所があったとされ、粟田口は平安遷都の後から京都への入口でした。七口という呼び名が知られるようになったのは御土居以後といわれますが、口そのものは御土居より前から人や物が出入りする場所だったといえます。

この項目のミニクイズ

読んだ内容を、2問の四択で確かめてみましょう。

  1. 粟田口・鞍馬口・丹波口など「京の七口」の名に付く「口」は、何を指すことば?京都府立図書館の展示案内による説明で答えてください。

  2. 京都市の「いしぶみデータベース」によると、京の七口の一つで、三条口・大津口ともいわれた出入口はどれ?

出典・確認情報

内容確認日:2026年10月11日

更新日:2026年10月11日

  1. 京都府立図書館「『京の七口、昔の道と旅』ミニコーナーのご案内」
  2. 国立国会図書館 レファレンス協同データベース(京都市図書館)「御土居(おどい)と京の七口(または十口など)の位置が一緒に掲載された図を古地図以外で見たい。」
  3. 京都市「史跡 御土居」
  4. 京都市「都市史18 聚楽第と御土居」
  5. 京都市・京都市埋蔵文化財研究所「京都歴史散策マップ8 御土居跡」
  6. 京都市「京都市歴史的風致維持向上計画」第2章(街道に見る歴史的風致)
  7. 京都市「京都のいしぶみデータベース KI023 出雲路鞍馬口」
  8. 京都市「京都のいしぶみデータベース HI016 粟田口」
  9. 京都市「京都のいしぶみデータベース KA098 大原口【道標】」
  10. 京都市「京都のいしぶみデータベース KA019 鯖街道口」
  11. 京都市「京都のいしぶみデータベース KI060 御土居」
  12. 京都市観光協会 京都観光Navi「京見峠」
  13. 京都市観光協会 京都観光Navi「粟田口」
  14. JR西日本「沿線点描【山陰本線(嵯峨野線)】京都駅~園部」(Blue Signal 2018年1月号)
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